reconstruct

震災当日~医院焼失

医院の周囲は既に四方が火の海の状態であった。炎の中から若い男が飛び出して叫んだ。「親父がそこで下敷きになっている。まだ生きている。たすけてくれ!」向こう見ずな私にも、さすがに猛火の中に飛び込むことは出来ず、大通りに出て消防士2名を連れてくる。さすがは耐火服に身を包んだ消防士、炎の中に飛び込んで行った。しかし、すぐにダメだと戻って来る。若い男はその場にへたりこんで号泣する。かける言葉もなく、消防士と共に男を安全な場所まで引きずって行く。

6年前に建てた医院の最期は見届けたいと前に戻って見ていたが、警官に注意され、また、駆けつけた当院の医師に無理矢理広い道路まで連れ出される。しかし見たい。どうしても最期は見届けたいと、医院の前に戻る。11時半頃ついに医院が燃えだした。(燃えろ!燃えるなら男らしく存分に燃えろ!最期は俺が見届けてやる、安心して燃えろ!必ずもっと立派なものを再建してやるから心おきなく燃えろ!!)2階、3階、4階の窓から火を噴き上げ始めるのを確認し、周囲の建物が焼け崩れて身の危険を感じたために退却する。

駆けつけた医師、看護婦に入院患者さん全員の安全を確認し、自宅への送り届けを指示し、自宅へ携帯電話で応援の依頼を試みるが通じない。急遽、車で自宅へ向かう。少し渋滞しており、約1時間で帰宅。家内は既に医院の近くで会社をしておられる向かいのY氏より医院近辺の状況を聞いていたようで、「燃えたそうね」、「うん、全焼したよ」、「そお」。
とりあえずは情報集めと、眼科医会、医師会関係、医院の職員や友人・知人へと電話をするが通じない。ひょっとしてと思い、日本眼科医会の事務局へ電話してみると一発で通じた(震災後の数日間は、市内の電話連絡は困難であったが、遠隔地へは比較的容易に通じていた)。医院が全焼したので、兵庫県眼科医会の庶務としての事務連絡が当分出来ないと伝える。有澤会長の消息その他を尋ねられるが、全く連絡が取れないと答える。

家内はすでに、おにぎりを作り始めていた。おにぎり、お茶、缶詰、懐中電灯、毛布、タオル、ホッカイロ等、手当たり次第に2台の車に放り込み、2台連なって医院へ向かう。この時点で道路は大渋滞となっており、我が車はガス欠のため途中の広い道路の端に放置し、家内の車で6時間半かかって医院の近くまで到着。万一、患者さんや看護婦が残っていてはと思い、避難所の中学校を訪れる。中では水も食料も無く、トイレも使えず、着の身着のままの人達が、廊下にまで足の踏み場もないような状態で暗闇の中に寝転がっておられた。関係者のいないのを確かめて3、4時間かかって帰宅。電気だけは通じていたので、テレビを見ながら酒をくらい、18日早朝に就寝。